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モネと睡蓮 (12月のコラムから)

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パリにいた画家たちの多くは家族が出来たこともあり、パリを離れ郊外へと引越しして行きます。

それには、絵の題材をもっと求めていったのと、大きな家に住むには家賃の高いパリを離れるしかありませんでした。

それには鉄道の発展が彼らを後押ししたようです。


モネもパリの北、10kmほどにあるセーヌ沿いの町アルジャントイユへ引っ越しますが

絵の売り上げは思わしくなく苦しい生活を余儀なくせれていました。

そんな折、彼の絵を買ってくれていた百貨店の経営者オシュデが倒産し、雲隠れをしてしまします。

仕方なく彼の大家族を引き取りオシュデが持っていたヴィトイユの家へ引っ越し、奇妙な生活がはじまります。


その頃からやっと絵も売れ始め、いよいよジヴェルニーへと引っ越します。

ここは今では説明の必要がないほど有名な観光地となっています。

淡いピンク色の母屋には中央にバラのトンネルがある広大な庭に包まれ、モネは花の種類や植える場所まで事細かに指示をしていたそうです。

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そして庭の端っこのトンネルを抜けると道路を挟んで奥には、睡蓮が咲く池のある広大な庭園へと拡張していきました。

絵描きにとってモチーフを見つけるのは大変な作業ですが、彼は何と自宅内に毎日描いても飽きないモチーフを作ってしまいました。

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浮世絵にも深い関心があった彼の母屋にはたくさんの浮世絵が飾られています。

この睡蓮の池にも念願だった太鼓橋を作り藤で覆われるまでにしました。

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この頃には世界中から絵の購入者たちがやってきましたが、

日本からも現在、西洋美術館に展示されている絵画を買うため松方幸次郎や大原美術館にある睡蓮を購入する為、児島虎次郎も訪れています。


そしていよいよフランス政府の要請により、オランジェリー美術館の壁画制作に臨みます。

もう85歳になっていたモネは完成させる自信をなくし、断っていたそうですが、

時の文化相だったクレマンソーに脅し宥めながら何とか制作に掛かりました。


楕円形をした大きな展示室2部屋分の壁画は見事なもので、その手が届くような距離感で描かれた情景は

まるでジヴェルニーの庭に迷い込んだように包みこんでくれます。


これはヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの大作「天地創造」に因んでパリのシスティーアン礼拝堂と言われています。

85歳まで生きただけでも偉いのにこんな大作で名画を最後の力を振り絞って描きあげたのには敬服の念しか沸いてきません。


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ご挨拶


パウル・クレーの作品に「Hauptwegund Nebenweg」という小さな絵があります。

これは人が歩むべき中心となる道もあれば、その周りの脇道も絶妙に絡みあっています。

そんな「寄り道」の面白さについてお伝えしてきましたが、今回をもち最終回とさせて頂きます。

長い間お付き合い頂いた読者の皆様には感謝と御礼を申し上げます。



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# by Atelier-Onuki | 2023-12-19 21:39 | コラム | Trackback | Comments(0)

モネの風景画 (11月のコラムから)

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一般的に風景画は360度広がる景色の中から一部を抜き取って題材を決めます。

その時、最適な構図と色使いで作画されるのですが、更に目には見えていないものを入れ込むのが肝となります。

それは風であったり香りや温度感、そして音も感じさせることが重要です。

更に切り取った風景の周りに存在する空気感を、その絵の中にフワッと持ち込むことが出来れば,より一層その場の雰囲気を表現する事ができます。


それが尤もよく表現されているのがモネの絵ではないでしょうか。

彼の絵を見ていると、これらの要素が相まって、まるでその風景の前に立っているかのような感覚に導かれます。

ムッとするような草むらから立ち上がる温度感や、その香りまでも・・・

木立の向こうに流れていく暖かい空気、まるで吸い込まれて行きそうになります。


そんな、モネが描いた風景に出会うためアチコチと訪れたいものです。

まずは青年時代を過ごし、あの「印象派」の語源となった「印象・日の出」が描かれたル・アーブルの海岸を訪れました。

まぁル・アーブルの街自体は殺風景な港町ですが、まるで宝探しをするように、絵の構図を思い浮かべながらこの辺かな、

いやそっちの方かなと歩き回りました。

港の形や左手遠くに見える工場地帯の位置から、まぁ大体この辺かなと云う場所までたどり着きました。

この時はタイトルにある「日の出」の時ではなく夕暮れ時でしたが、

空や海は淡いパープル色に染まり、遠くを行く船はボヤ~とブルーグレーに霞んでいて、雰囲気はあの絵のような感覚を味わう事ができました。


さて、ここから東へ1時間ほどバスに揺られ次の目的地エトルタに向かいました。

そう、ここは大きく抉られた印象的な断崖が海に突き出しているところです。

古くはクールベも描いていますし、モネも何枚も描いています。

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朝起きて反対側の丘から見えた時は「オォこれか!」と体が震えるほどの感動をしました。

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この教会が建つ丘からの眺めも抜群ですが、この奇岩がある丘自体にも上る事ができます。

こちらは草むらを進む自然な感じが残っていて途中細い断崖の間を抜けたりと、ちゅっとしたスリルも味わえます。

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ここではモネは、やはりル・アーブルに住んで居でエトルタをよく描いていた先輩画家のウジェーヌ・ブータンから多くの事を学びます。

そしていよいよパリへと向かうことになります。

この頃はパリ郊外のフォンテーヌブローの森や展覧会を開催した大通りやサンジェルマンなど市内を描いています。



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# by Atelier-Onuki | 2023-11-19 01:37 | コラム | Trackback | Comments(0)

モネと印象派 (10月のコラムから)

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ある時、キリコが「最も印象派らしい画家はだれですか?」とピサロに尋ねたところ

「そりゃシスレーだよ!」と答えたそうです。


シスレー、その穏やかな画風のイギリス人画家は私も尊敬する大好きな画家です。

勿論、印象派らしく移ろい行く光のなかの情景を見事に捉えています。


唯、最も印象派らしい画家といえば、私はモネではないかなと思います。

尤も、この“印象派”という表現を生んだのもモネの絵からです。

それは展覧会に出品した初期の作品「印象・日の出」(Impression,soleillevant

を見た風刺新聞の記者が皮肉たっぷりにこの展覧会の名称としてネガティヴに取り上げたことに由来しています。

「何たるボーッとした表現、これを印象(Impression)と言うのか・・・」

この皮肉タップリな表現を、すっかり気に入った彼ら仲の良かった画家グループが、自分達の流派として受け入れてしまいます。

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この当時のフランス画壇はアングルを中心とするアカデミーが主流で、これにはサロンで入賞しなければ入る事ができませんでした。

そんな伝統的な写実表現ではなく、もっと自然の光に近い明るい絵画を模索していた彼らの描き方は、なるべく絵の具をパレット上で混ぜず、

キャンバス上でもストロークの短い割筆画方というやり方で、今で言うドットのような考え方でした。

これだと中々写実的には描く事が出来ず、サロンでは受け入れられず落選を余儀なくされる状態でした。


アカデミーには入れずモンマルトル墓地の近くにあったグレールの画塾に通っていましたが、偶然にももの凄い画家たちが集っていました。

年齢が上だったマネ(彼自身は印象派とは違う路線へと進みますが)を中心に、

カリブ海のセント・トーマス島からやってきたお父さんがフランス人のピサロ、彼も年齢が上で面倒見の良い人柄で慕われていました。

そこに親が銀行家のドガ、そして両親がパリで商店を営んでいたイギリス人のシスレー、

そして青年時代北フランスのル・アーブルにいたモネがやってきます。

さらにモネの1つ下のルノワールも加わり錚々たる人たちが集まりました。

グレールも伝統的な描法を押し付けず、彼らに自由に描かせていました。

彼らは画塾に近いカフェ・ゲルボアに集まっては、これからの芸術論に花をさかせていました。


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彼らは他に類を見ないほど仲の良いグループでした。

そしてドガ以外はサロンに縁がなかった彼らはいよいよ自分達で主催する印象派の由来となる第一回目の展覧会を

オペラ座前に横切る大通りにあるナダールの写真館で開催されます。

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# by Atelier-Onuki | 2023-10-27 00:19 | コラム | Trackback | Comments(0)

ロダン美術館 (9月のコラムから)

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パリにはルーブルを筆頭にオルセーなど世界に冠たる美術館が数多存在しますが、ロダン美術館もその一つです。

中心からちょっと離れているので落ち着きのある地区で、すぐ傍にはナポレオンのお墓がある黄金のドーム屋根のアンヴァリッドが建っています。


元々はビロンと云う貴族が住んでいましたが、革命後は女子修道会が引き継ぎ、教育活動をしていましたが、

政府によって宗教による教育が禁じられました。


その後、ここは若い芸術家たちに安く貸し出され、コクトーやマチスらも住んでいました。

その内の一人で詩人のリルケがロダンを招きましたが、すっかりここが気に入ったロダンも一部屋を借り毎日のように通って制作に励みました。


その後、国が買い取る際、全員が立ち退く事となったのですが、ロダンは是非とも自分の作品を紹介する美術館として、

全作品を寄贈することを条件に住み続けることが出来ました。

展示作品は彫刻が6600点、絵画とデッサンが約7000点とほぼ彼の全作品を所有しています。

それにここは館だけでなく庭が広いし、素晴らしく手入れされています。

彼の彫刻作品は屋外に展示されるのを想定して作られていますから、この庭に展開する作品郡は自然と庭に溶け込んでいます。


元来、粘土で元の像を制作し、そこから型をとってブロンズに鋳造するのですが、原則として12点目まではオリジナル作品として認められています。

鋳造の数が進むにつれ、オリジナルの原型が徐々に崩れて行きますが、さすがここの作品は殆どが1点目の物です。


ここではロダン主要作品が堪能できますし、彫刻だけでなく素描などササッと走り描きながらも、彫刻家ならではの描き方で、

もの凄く上手いなぁと感心します。


ロダン以外の作品では、彼の弟子で悲しい悲恋のすえ世を去ったカミーユ・クローデルの作品も館内に展示されています。

特に「分別盛り」(TheMuMature Age)はロダンとの悲しい関係を表現した作品で、胸が打たれます。

それにしても、もの凄い才能の持ち主だった事が伺われます。


もう一つは、何とゴッホの作品で「タンギー爺さん」です。

この人はモンマルトルで画材屋を営んでいましたが、売れない画家たちを援助し、作品を置く代わりに画材を無償で提供していました。

ゴッホもその一人で彼の肖像を3枚も描いています。

これはその内の一枚で最も有名な作品、この絵をすっかり気に入っていたロダンは

タンギーが亡くなったあと、娘さんから購入しています。



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# by Atelier-Onuki | 2023-09-20 00:42 | コラム | Trackback | Comments(0)

アルハンブラ (8月のコラムから)

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私の高校時代の親友でその頃からギターを始め、今も熱心に練習を欠かさない人がいます。 

アンサンブルにも属していてアマチュアながらコンクールで優勝するほどの腕前です。

そんな彼が好んで演奏する曲にフランシスコ・タレガの名曲「アルハンブラの思い出」があります。

彼曰く終始全曲のベースを支えているトレモロは噴水のこぼれ落ちる水滴を表しているそうです。

多分これは「ヘレラリフェ」といわれる離宮にある噴水のことでしょう。

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大きなパティオの中央にある水槽に向かって左右から幾重にも噴水が噴出してアーチを作っています。

この離宮は特に水が豊富に演出されていて潤いに満たされています。

階段の手摺までも水路があって水が流れているほどです。

これらは近くの3000m級の山々が連なるシェラネバダから雪解け水を引いてきているそうです。

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さて、この「アルハンブラ宮殿」(赤い城という意味だそうです。)は

当時イスラム教圏の民族によって支配されていたアンダルシア地方のグラナダの丘に建てられました。

9世紀ころに砦が建てられてから何世紀にも渡って増築されて行き、要塞都市として発展して行きます。

城内には宮殿を初め官庁や軍隊、モスクや学校もあって2000人以上の貴族が住んでいたそうです。

唯、カトリック教圏の国土回復運動(レコンキスタ)によって15世紀に陥落してしまいます。

普通は陥落すると城などは破壊されてしまうのですが、この時の女王イザベラが、この宮殿の余りもの美しさに、そのまま保存することに決めます。

そのお陰で今日もその美しさを観賞することが出来るのですが、そのアラビア風の独特の装飾は繊細で圧倒的な美しさを放っています。

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この宮殿からダロ川が流れる谷を挟んで対岸の丘に広がるアルバイシンの白い町並みも見ものです。

敵からの襲撃に備え迷路のように入り組んだ小道に複雑な町並みを形勢しています。

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ここから更に稜線に沿って進むとサクロモンテと言う地域、ここはロマの人たちの洞窟住居が点在して妖しげな雰囲気をかもし出しています。

今はちょっと観光化されましたが、40年ほど前に行ったときは踏み入ってはいけない感じがしました。

歩いていると洞窟の前にいた恰幅のいい婦人に、急に腕をグイと掴まれ「手相をみてやる!」と中へ引き込まれそうになりました。



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# by Atelier-Onuki | 2023-08-24 00:12 | コラム | Trackback | Comments(0)