カテゴリ:コラム( 13 )

ヴィリー・ボスコフスキー(Willi Boskovsky 1909-1991年)さんの思い出

1月は日本へ行っていましたので、もう2月とえらい時期が遅くなりましたが、
このコラム記事を載せておきます。
a0280569_19513635.jpg

ニューイヤー・コンサートは今ではお正月の風物詩としてすっかり定着していますが、
ヨハン・シュトラウスⅡ世と同じようにヴァイオリン片手に25年間も指揮を執っていた
ヴィリー・ボスコフスキーさんの時代に世界中の人々に親しまれるようになりました。
a0280569_19515333.jpg

処で、超大昔のある年、大学受験で上京していましたが結果は見事に不合格。・・・

落胆して雪道をトボトボと帰路に付いていましたが、
ふと「確か今日はウィーン・フィルでワルツの夕べがあるはずだ!」と思い浮かびました。

ひょっとしてチケット売り場は開いているかもしれないと、当てもなく会場の武道館を目指しました。

ガランとした広場には人気もなく空っ風が空しく吹いているだけです。

諦めて返ろうとすると、何処からとなく音が聞こえてきます。

これはひょっとしてと、音が聞こえて来る方へと向かうと、
太いケーブルが敷かれていて一箇所ドアが半開きになっていました。

「そうかTV中継をするのだ!」と、恐る恐るドアを開き中へ入ると・・・な、
何とリハーサルの真っ最中ではないですか・・・

二階席でポツリと座っていると、「そこの君、こっちへ降りてきて!」と誰かが叫んでいます。
いやぁこれは叱られるのかと思ってヒヤヒヤしながら降りていくと、
どうやらバイトのスタッフと間違えられたようで「これ、ステージの上に持っていって!」と、
楽器を運ばされることに。 「ハイハイ!」と二つ返事で手伝っていました。

休憩に入りTVスタッフは皆帰り、私はたった一人で客席の最前列にポツリと残りました。

リハーサルは続きますが、ウィーン・フィルの皆さんは和気藹々とした雰囲気で楽しそうです。

「常道曲」では途中で「und so weiter, und so weiter」と指揮者の掛け声で止まる決まりなのですが、
ファゴットが造反し、止まるどころかパカパカ・パカパカとものの見事に吹き続いています。
これには全員から喝采が起こり大笑いとなりました。

その後もポルカ「狩り」では打楽器奏者がボスコフスキーさん目がけて銃を撃つと
彼も胸を押さえて撃たれた格好をしていました。

リハーサルも終了しサインを恐る恐るボスコフスキーさんにお願いしましたら、
ニコニコとしながら気軽に応じてくれました。
握手までしてくれましたが、その時私の薬指にガチッと当たるものを感じました。
フト見るとそれは四角い立派な黒ダイヤが付いた指輪でした。

彼はスイスで亡くなりましたがお墓はウィーンの中央墓地で眠っています。
ボスコフスキーさんは、やはりウィーンが良く似合います。
a0280569_19521923.jpg



by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2018-02-08 19:53 | コラム | Trackback | Comments(0)

「パリのモンマルトル墓地」 (ドイツ・ニュース・ダイジェスト12月のコラムより)

a0280569_1454983.jpg


パリでは、モンマルトルの麓に位置するアベス界隈がゴジャゴジャとした下町の生活感が溢れていて好きです。
a0280569_1461239.jpg

この界隈は画家たち縁の地も多いですし、アベス通りを西の方へ下るとモンマルトル墓地が現れます。

初めてこの墓地へ行った時はブラッと立ち寄っただけで、何の予備知識もないまま訪れたのですが、
います、います、数多の著名人たちのお墓が目白押しに出現しました。

この日は寒く、夜にはオペラへも行く予定があったので、後ろ髪を引かれながらも、ここを後にしました。

それから数年後、今度はしっかり調べてから出向きました。
クリシー広場から通りをダラダラ登り、コーランクール通りに入った辺りの階段を降りると墓地のメイン入り口に出ます。

この墓地はかつての石切り場跡に作られたそうで、なるほど地面からは随分下がった所に位置しています。

入り口の番屋には地図がぶら下っていて借りる事ができ、
この裏側には著名人の名前がアルファベット順に載っているので心強い味方です。

広い墓地は木々も多く静かで都会の真ん中とは思えないほどです。
a0280569_1494037.jpg

a0280569_1495971.jpg

ここにはスタンダールを初めゾラやハイネなどの文学者や作曲家ではベルリオーズにオッフェンバッハ、
それにドリーブ、画家ではドガ、ダンサーではニジンスキーと枚挙に暇がありません。

ただ、この日の目的はオペラ「椿姫」でヒロインになったヴィオレッタのお墓を訪ねることでした。

陸橋を潜ると左手にあっけないほど簡単に見つける事が出来ました。

屋根の付いたシンプルな墓石には彼女の本名で“Alphonsine Plessis”アルフォンシー・プレシと刻まれています。 
a0280569_150386.jpg

正面には肖像画もはめ込まれていて、真っ赤な口紅の跡が幾つも残されていました。 
彼女が生きた時代から150年以上も経過しているにも関わらず、今でも彼女を慕う女性たちが多くいることが伺われます。
a0280569_150515.jpg

彼女の名前はややこしく小説では“マルグリット・ゴーチェ”として登場し、
オペラでは“椿姫”というタイトルにも関わらず“ヴィオレッタ”(スミレちゃん)と名付けられ、
もう一つの “マリー・デュプレシ”という名はいわゆる源氏名で、
その知性と気品の漂う美麗さで当時は有名な人だったそうです。

彼女との実際の出来事を元に小説化したアレクサンドル・デュマ・フィスも近くに眠っています。




by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-12-19 01:52 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーのお墓 “ウィーン、グリンツィング墓地“ (ドイツ・ニュース・ダイジェスト11月のコラムより)

a0280569_22245335.jpg


ウィーンを追われるように辞職させられた彼は新しい活路を求めていましたが
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の招きで1907年の暮れに渡米しました。

2年後にはニューヨーク・フィルの常任指揮者も兼任することになり
ヨーロッパとは行ったり来たりの生活でした。

それにしても当時は船旅ですから体力的にも相当厳しいことだったでしょうね。

トブラッハで9番目の交響曲を作曲していた頃の彼は体力的にも精神的にも
相当弱っていたはずです。

そんな折、元来疾患があった心臓病が悪化し、
ニューヨークからウィーンへ戻って来ますが、3ヵ月後に亡くなってしまいます。

息を引き取る直前に「モーツァルト」と2度言ったそうです。

お墓はウィーンの北西グリンツィング墓地に5歳で亡くなった長女マリア・アンナと一緒に
ウィーンの街を一望できる高台に眠っています。
a0280569_22261945.jpg


ユダヤ教の神殿門を連想させるような形の墓石はシンプルながら堅固な印象です。

墓石上部に「GUSTAV MAHLER」としか刻まれていませんが、
これは生前「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何物だったか知っているはずだし、
そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない。」と明言していたそうで、
いかにもマーラーらしい発言です。
a0280569_22265926.jpg

墓石には沢山の石が乗っていますが、
これは、かつて大戦中に多くのユダヤ人を救ったシンドラーの墓に誰かが置き始めたのが最初だそうで、
ユダヤ教では永遠性や不滅の意味が込められているそうです。
a0280569_22271817.jpg

さて、妻だったアルマ・マーラーもこの墓地に眠っているのですが、
このお墓は、まず三角形の石版が目立っていてそこには「MANON GROPIUS」と刻まれています。
それはグロピウスとの間に生れた娘マノンで、聡明な美少女だったそうですが19歳で急死しています。
a0280569_22275056.jpg

若い頃、子供と引き離された過去があるアルバン・ベルクは
友人だったアルマの子を我が子と重ねるように可愛がっていたそうで、
すぐさま作曲したヴァイオリン協奏曲は「ある天使の追想に」と題され思いを込めています。
唯、この曲は彼自らへのレクイエムともなってしまいました。

アルマの名前は背景のように建てられた青銅版に示されていますが、
そこには「ALMA MAHLER WERFEL」と刻まれています。
Werfelは最後の夫でマーラーとは死別なのでダブル・ネームなのでしょうか。・・・
a0280569_2234244.jpg

マーラーのお墓から通路を挟んで4つほどずれた裏側に面していて、
二人の微妙な関係を象徴しているようです。


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-11-26 22:35 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーの作曲小屋3-トブラッハ (ドイツ・ニュース・ダイジェスト10月のコラムより)

a0280569_1975670.jpg


マーラーの三つ目、即ち最後の作曲小屋は、
南チロルのトブラッハ(イタリア語でドッビアーコ)にある山の中腹に建っています。
a0280569_1982647.jpg
 
1908年、50歳を迎えようとしていた彼の状況は最悪と言っても差支えがないほどでした。
1年前には長女を亡くし、ウィーンの職は解雇され、自らは心臓病を起こしたり、精神病も煩いフロイト博士の診断を受けていました。

それに何と言っても彼を悩ませたのは妻アルマの浮気でしょうか。

アルマは恋多き女性として知られていますが、
結婚をする前から彼女の師であった作曲家のツェムリンスキーとも噂されていましたし、
画家のクリムトとも親しかったようです。

そしてこの当時は著名な建築家で後にバウハウス創設者となったヴァルター・グロピウスと付き合っていて、
グロピウスはわざわざトブラッハまでアルマに会いに来たとも言われています。
 
そんな状況の中、マーラーの交響作品はちょうど9番目の構想に差し掛かっていましたが、
「9番」を呪いのように思っていた彼は躊躇しています。

それはベートーヴェンをはじめブルックナーなど偉大な交響曲作曲家達が
「9番」を最後に他界していたからです。

若い頃から死に対する不安が付きまとっていたマーラーにとって「9番」を作曲するには決死の覚悟が必要でした。

結局は「9番」として着想した曲は「大地の歌」という別名の交響曲とし、
タイトルに「9番」と付けるのを避けてしまいます。
 
しかし、意を決したように、とうとうこの作曲小屋で「9番」の制作に取り掛かります。

曲は「大地の歌」の最後のフレーズ「永遠に~」から同じメロディーを受け継ぎ静かに始められ、
途中はもうヤケクソ気味の気分にもなりますが、最終楽章では穏やかな気持ちで死に対する恐怖から解かれ、
むしろ憧れすら感じさせる崇高な音楽にまで昇華しています。
 
ただ、この作曲小屋は現在、人寄せパンダよろしく作られた動物公園の中に
埋もれてしまっているのが、少しばかり残念です。
a0280569_1985177.jpg

a0280569_1991189.jpg

夕方ちょっと悲しい気分になって「そろそろ帰ろうか」と、遠くトブラッハの町を眺めていると、
教会の鐘が鳴り出しました。
「カン・コ~ン、カン・コ~ン」……

「これって1楽章の最後の方で鳴る鐘と同じメロディー……」
ジワッ~と目に熱いものを感じました。



by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-10-21 19:10 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーの作曲小屋-2 (ヴェルター湖畔) [ ドイツ・ニュース・ダイジェスト 9月のコラムから]

a0280569_0495426.jpg

8年間とマーラーが最も長く滞在した二つ目の作曲小屋はオーストリアの最南部、
スロベニアにほど近いヴェルター湖畔(Wörthersee)のマイヤーニッヒ(Maiernigg)に建てられました。

湖は横に長く、濃いエメラルド・グリーンの水を湛えて透明度も高く綺麗な湖です。

湖北岸の中央辺りに位置するペルチャッハ(Pörtschach)と言う小さな町は
ちょっとしたリゾート地となっていて湖沿いにはお洒落な店やホテルが立ち並ぶプロムナードになっています。
a0280569_0501612.jpg

a0280569_0503484.jpg

ここには2年に渡る夏のシーズンにブラームスが滞在し、
「交響曲2番」を初め「ヴァイオリン協奏曲」や「子守唄」などの名曲を作曲しています。

マイヤーニッヒは対岸の南東部に位置しますが、ブラームスがこの湖を訪れていたことも、
マーラーがこの地を選んだ理由の一つかもしれません。

この当時のマーラーは指揮者としてはウィーン宮廷歌劇場の芸術監督,
そしてウィーン・フィルの常任指揮者としても活躍し、押しも押されぬ地位を獲得していました。

作曲家としても既に揺るぎない名声を博し、絶頂期を迎えていました。

このマイヤーニッヒは1899年に湖畔に建つ館と裏山の土地を購入したほどで、
この地でジックリと腰をすえて作曲に取り込む覚悟だったようです。
a0280569_0521621.jpg

1902年には41歳で23歳のアルマと結婚、そして長女マリア・アンナの誕生と私生活でも幸せの頂点でした。

ここで作曲された曲では何と言っても「交響曲6番」が最も名作として知られる処ですが、
この4楽章で叩かれる大きな木槌を巡って色んな解釈がなされています。
(現在は2回叩くのが大方の解釈ですが、バーンスタインなどは3回叩かせました)

こんな絶頂期にも関わらず神経質な彼は3ツの不安を感していました。

一つ目は「家庭の崩壊」、二つ目は「社会的ダメージ」、そして三つ目は「自分の死」を恐れていました。
(マーラー自身の指揮では初演以外、3つ目は叩けなかったそうです)

これらの予感は後々全て当たってしまいますが、
それよりも何を思ったのかリュッケルトの詩に啓発されて作曲した
「亡き子をしのぶ歌」を発表したすぐ後に長女が忽然と亡くなってしまいます。

その後、この土地を全て売り払い二度とこの地へ来る事はありませんでした。
a0280569_053453.jpg

a0280569_0531995.jpg

a0280569_0533464.jpg


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-09-18 00:56 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーの作曲小屋・番外編 アルタウス湖 (ドイツ・ニュース・ダイジェスト 8月のコラムより)

a0280569_21201295.jpg

アッター湖畔のシュタインバッハを後にマーラーがブラームスを訪ねたように、私もバド・イシュルを目指しました。

バスは途中のヴァイセンバッハで乗り換えるのですが、時刻表をよく見ると“Rufbus“と記載があり、
乗車時間の1時間前に電話連絡するようにと書かれていました。

人気のないバス停、半信半疑で待っていましたが、
来ました来ました威勢の良いご婦人が運転するミニバンが時間通りやってきました。

乗客はたった一人にも関わらず結構な山道を延々と進みバド・イシュルまで連れて行ってくれました。
まるでリムジンサービスのようで、これにはいたく恐縮しました。

さてバド・イシュルも皇帝フランツ・ヨゼフが愛した保養地なので、それなりに味わいがあるのですが、
早々に、この日の目的地アルタウスゼーに向かいました。

列車は途中通過するハルシュタットの綺麗な町並みを湖越しに眺めながら先ずはバド・アウスゼーを目指します。

ここでバスに乗り換え、揺られることほんの15分ほどで小さな村へ到着しました。

このアルタウスゼーに来たかったのは、この湖畔に建つワグナー家
(作曲家ワグナーとは何の縁もない人)に招かれたブラームスが、
バド・イシュルで完成させたばかりのピアノ三重奏2番と弦楽五重奏を試演しているからです。
a0280569_21211871.jpg

a0280569_21213369.jpg

この館はホテル・Seevillaとして現存し、
演奏した部屋は「ブラームス・サロン」と冠されたレストラン・カフェになっていて
湖を眺めながらゆったりとした時を過ごす事ができます。
a0280569_21215991.jpg

a0280569_21221789.jpg

a0280569_21223160.jpg

ブラームスは途中の保養地バド・アウスゼーに滞在していたクララ会いたさもあったかも知れませんね。

その数年後には念願のウィーン宮廷歌劇場に就任しブラームスを崇拝していたマーラーもやってきます。

ここでは「子供の不思議な角笛」と交響曲4番という名作に着手しています。

ちょっと辺鄙な所にある湖なので訪れる人も少なく、ちょっとした秘境かもしれません。
水も透明度が高く、聞くところによるとそのまま飲める程だそうです。
a0280569_2123177.jpg

a0280569_21231927.jpg

近年、ジョージ・クルーニー制作の映画「ミケランジェロ・プロジェクト」(The Monuments Men)で
ラストシーンの舞台にもなったのでちょっとは知られたかもしれませんね。

ブラームスはクララを、マーラーはブラームスを追っかけているようですが、
この現象は未だ続きがあります。


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-08-21 21:25 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーの作曲小屋1-オーストリア、アッター湖畔 (ドイツ・ニュース・ダイジェスト7月のコラムから)

a0280569_21511880.jpg


グスタフ・マーラーは生涯に3カ所の作曲小屋を作りました。

彼は毎年9月から翌年の6月までの音楽シーズンは優秀な指揮者として活躍していましたので、
夏休みの間に集中して作曲に取り組んでいました。
 
作曲に専念するため、最初に訪れたのはザルツカンマーグートの湖水地方にある湖の一つ、
アッター湖畔のシュタインバッハという小さな村でした。
 
当時マーラーは33歳、ハンブルク歌劇場の音楽監督時代でしたが、
1893年から1896年まで4年にわたり弟や妹達と休暇を兼ねて滞在していました。
それにしても、誰から聞いたのでしょうか、よくもこんなへんぴな所まではるばる来たものです. 

彼が滞在したホテルは「ガストハウス フェッティンガー」といって現在は名称こそ変わりましたが
当時のまま現存していて、2階の階段室にはマーラーが滞在していた部屋が再現されています。
a0280569_21515967.jpg
 
最初はホテルの部屋で作曲に勤しんでいたのですが、
何かと騒がしくて集中できなくなり湖畔に小屋を建ててもらったそうです。
 
事実、私が行った時も、ちょうどマイバウム(“5月の木”といって、
町のシンボルとして5月1日に建てられる)を建立した日で、
ホテルの庭では楽隊がくつろいでいて、ご機嫌な音楽が時折演奏されました。
a0280569_21521952.jpg
 
これではあの神経質で深刻な内容がたっぷり盛り込まれている曲の発想は邪魔されたことでしょう。
 
小屋はホテル裏手にある湖畔にポツリ(マーラー時代の写真だと)と建っています。
今はキャンピング場を抜け、小屋の隣にはダイビング・スクールも建っています。
a0280569_21525576.jpg
 
気を取り直してドアを開け慎重に歩を進めると、突然、弦のトレモロと共にザバザバザンと
お腹に響くようにコントラバスが力強く刻みました。
a0280569_21531981.jpg

それはセンサーが反応してここで作曲された交響曲2番の冒頭が鳴り始めたのでした。

ここでは、牧歌的な交響曲3番も作曲されていて、意欲に満ちた名作が生れています。
 
この頃、ウィーンへの進出を目論んでいた彼はコネを得ようと
近くのバド・イシュルに滞在中のブラームスの元を訪れています。
 
私も従って翌日はバド・イシュルへと向かいました。
(何のあてもなく!)


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-07-27 21:53 | コラム | Trackback | Comments(0)

オーストリア、アイゼンシュタットに立ち寄って (ドイツ・ニュース・ダイジェスト6月のコラムから)

a0280569_0284852.jpg


前回登場したルストへ行く途中、バスはアイゼンシュタット(Eisenstadt)を経由します。

この町は元来ハンガリー領だったため、今でもハンガリー系の人がたくさん住んでいるそうで、どこか東欧の香りが漂っています。
街並みはパステルカラーに塗られた可愛い家々が連なっています。
 
この地を治めていたハンガリー出身の貴族、ニコラウス・エステルハージ候は無類の音楽愛好家として知られています。
その候のお気に入りがヨゼフ・ハイドンで、候の没後も含めてかれこれ40年近く仕えました。

エステルハージ宮殿から、現在ヨゼフ・ハイドン・ガッセという名の通りに入り
ほんの100mほど行った19-21番地にハイドンは住んでいました。
淡いブルーに塗られた可愛い家で、中庭もあり静かで落ち着いた佇まいです。
現在はハイドン・ハウスとして見学をすることができます。
 
ハイドンは機知に富んだ性格だったことで知られていますが、
少年時代はウィーン少年合唱団の前身であるシュテファン大聖堂の聖歌隊に属しています。
そこでの悪戯事件の数々が記録に残っていますが、
ミサで歌っている最中に前列の少年の後髪(当時は三つ編)を切ってしまい、
とうとう解雇されてしまいます(ちょうど変声期にも差し掛かっていたそうですが)。
 
交響曲には魅力的なタイトルが付けられたものが多く、
初期ではウィーンの「朝」、「昼」、「夕」をはじめ「哲学者」、「告別」、「校長先生」、
有名な曲では「驚愕」、「軍隊」、「時計」など、曲名を見ただけで聴いてみたくなるほどです。

「告別」などは離宮での演奏会が長引き、
早く家に帰りたい楽団員達からの苦情を聞き入れた形で作曲されました。

最終楽章の途中、弱音器をつけ静かに演奏されるあたりからパラパラと楽団員が譜面台の蝋燭を消して退出して行き、
とうとう最後はコンサート・マスターと指揮者だけが残ることで、候への無言のメッセージを伝えました。

そんな悪戯好きでウィットに富んだハイドンですが、
曲は様式美を踏みはずさないのであくまでも品格が保たれています。
 
このエステルハージ宮殿には現在ハイドン・ザールと冠されたホールがありますが、
ウィーンのムジークフェライン(楽友協会)ができるまでは最高の音響を誇っていたといわれています。

客席が660席と小さなホールで、バロック調の内装と共に優雅に響くことでしょう。
毎年9月初旬にはハイドン・フェスティバルも開催されているようです。



by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-06-20 00:28 | コラム | Trackback | Comments(0)

ルストでのサイクリング(ドイツ・ニュース・ダイジェスト 5月のコラムから)

a0280569_19164079.jpg


ウィーンには5月半ばから6月にかけて芸術週間が開催されているのでよく滞在するのですが、
演奏会やオペラの予定がない日はちょっと遠出をするのも楽しいものです。

その一つにウィーンから南東へ約40km、ハンガリーとの国境沿いにルスト(Rust)という小さな町があります。

ここはワイン造りが盛んなブルゲンラント州に属し、コウノトリが巣を作ることでも有名で、
このシーズンは建物の煙突の上に「これって飾り物?」と思うほどよく見かけます。
a0280569_19174295.jpg
 
a0280569_1918687.jpg

町も小さいながら古風で趣のある佇まい、それに料理がまた美味しい……! 
種類は一般的なドイツ料理とほとんど変わらないのですが、格段に美味しく感じられます。
a0280569_19182366.jpg
 
a0280569_19184079.jpg

また隣接するノイジードラー湖(Neusiedler See)は琵琶湖の半分ほどの大きさですが、
野鳥の楽園としても知られています。水深は浅く、深い所でも2mほどしかないそうで、
そのため岸辺近くから、まるで林のように葦が生い茂っています。
a0280569_19192857.jpg
 
a0280569_19194537.jpg

ここは地形がフラットなのでサイクリングをするのも快適です。
市役所があるラートハウスプラッツに面した場所には、
とても親切なオジサンが経営するレンタル・サイクリング屋さんがあります。
レンタルした自転車にまたがり、まずは人けのないゼーシュトラーセをヨットハーバー目指して走ります。
a0280569_19201358.jpg
 
途中には葦の茂み越しに色とりどりの船小屋がひっそりと点在していて、
何だかノスタルジックな雰囲気を醸し出しています。
a0280569_19202963.jpg

しばらくすると、これまた葦林の向こうに、住居のような建物があちこちに見え隠れして
「これって水上集落?」と思い、よく見てみると、家々は桟橋で繋がっていますが、
まるで迷路のようになっていて、とても不思議な光景です。
ここはたぶん、住居ではなく舟遊びを楽しむ人達の家だと思われますが、
ちょっとした異空間を演出しています。
a0280569_192152.jpg
 
a0280569_19211953.jpg

さて、一度町へと引き返し、今度は国境に接した湖上劇場があるメルビッシュ(Mörbisch)を目指します。
a0280569_1922018.jpg

a0280569_19221720.jpg

6・7kmほどの道はブドウ畑が点在するのどかな風景で、
初夏の風に吹かれながらのサイクリングはこの上ないほどの心地よさです。
a0280569_19223232.jpg
 
a0280569_19224784.jpg

a0280569_1923180.jpg

ルストへと戻り、勢いのまま飲み屋に飛び込み、ワイン酒場であるホイリゲにも関わらずビールを注文……。
それがワインへと移り、いつの間にか差し入れられたシュナップスに手が伸びる頃にはすっかり上機嫌です。
a0280569_19234826.jpg

気が付けばとっくに最終バスが出た後で、仕方なくこの二階にある宿屋で一泊することになりました。



by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-05-22 19:23 | コラム | Trackback | Comments(0)

ベルギーの田舎町ヴェルヴィエにて(ドイツ・ニュース・ダイジェスト 4月のコラムから)

a0280569_24104.jpg
 

パリへは時々行くことがあり、タリス(Thalys)を利用するのですが、
アーヘンを出てしばらく走ると、丘に沿って古い家並みが続いている町を通ります。

タリスは停車せず通過するだけですが、「ここは絵になるなぁ……」とずっと気になっていました。
気温も上がり出したある春の日のこと、「ようし、あの町へ行ってみよう!」と決心をして出掛けました。
 
アーヘンから普通列車に乗り換えて30分ほど、そこは「ヴェルヴィエ」という駅でした。
ベルギーのリエージュ市とドイツ国境の中間に位置する町です。
古くから水と共に発展した町で、噴水も多くワロン地域の「水の都」と言われてきました。
駅前から古い建物が密集していて趣を感じます。
 
取りあえずはコーヒーを飲みながら一休みをしようと、
カフェに入りましたがここはベルギーのワロン地域、フランス語圏の町。

ドイツに隣接しているにも関わらずドイツ語は一切通じず、ガラッとフランス語の世界になっていました。
コーヒーのミルクもタップリですが、カフェ・オ・レほど多くはなく、
ちょうどドイツとの中間くらいの量だったことには思わず笑ってしまいました。
 
初めての町を知るために私は常套手段として中心部を抜けなるべく遠くまで行くバスを使います。
その日もさっそく見付けて乗り込みました。
町の中心部はほんのわずかで、すぐに田園風景が広がる田舎へと入ります。

取りあえず終点の景色も良かったので、ここで1枚スケッチをしました。

途中にも小さなお城がある村があり、ここでもう1枚描いてから町へと戻りました。
2、3日滞在してスケッチをするつもりだったのでホテルを探したのですが、一軒も見付かりません。
駅でも調べてみましたがやはり無いようです。
結局は諦めて近くの温泉保養地「スパ」へ移動することにしました。

ヴェルヴィエは、近代化の進んだ時代に取り残されたような町でしたが、食事は美味しいし、
その古く趣きのある佇まいは深く印象に残っています。
 
ところで、後ほど知ったことですが、
この町で作曲家のギヨーム・ルクーが生まれていて、
町のどこかに銅像もあるそうです。

彼は運悪く、チフス菌に汚染されたシャーベットを食べてしまい、
24歳という若さでこの世を去りました。
 
この早逝の天才作曲家のヴァイオリン・ソナタなどは素敵な曲で、モノラルながら、
ベルギーの名手アルテュール・グリュミオー盤をよく愛聴しています。


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-04-23 02:41 | コラム | Trackback | Comments(0)