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母の一周忌に寄せて

昨年の2月、突然電話が掛かって来て、母が危篤状態とのこと。
このまま生命維持の処置を続けるかどうか病院へ連絡を入れる様にと連絡を受けました。

とっさの事で最初はどうして良いか分からず、頭の中は色んな事を一気に考えパニック状態で
右往左往していましたが、先ずは病院へ連絡をと、やっと電話を手に取りました。
病院の説明によると、既に暫くの間心臓の停止状態が続いており、
このまま生命維持を続けても無理だろうとの事で、その処置の停止の許可を求めて来ました。

2日前に電話をした時には元気に話していたのですが、急に風邪をこじらせ結局は肺炎を引き起こし、
それが元で心臓発作を起こしたそうです。

こうして離れて暮らしていると、一人暮らしの母の事は何時も心配をしていましたし、
歳が歳だけに覚悟だけはしていた積もりですが、いざ訪れてみると狼狽えるだけでした。

それでも先ずは日本行きの手配、連絡すべき所には電話を掛けまくり取りあえずは出発、
夜遅く到着した次の日はお葬式の打ち合わせ、その日の内に出棺しそのままお通夜に、
翌日はお葬式、その週の内に納骨までと怒涛のような10日間の短い滞在の間で、
何とかやるべき事全てを済ます事が出来ました。
それには、亡くなった母の準備が私の大きな助けとなっていました。
母も日頃から覚悟はしていたようで、通っていた教会には死んだ場合に備え、
自分の経歴やお葬式、納骨への希望をちゃんと書面で提出していました。
教会も戦前から存在する歴史のある教会で会員数も多く、
この様な冠婚葬祭には手馴れたものでとても心強く、
安心して全てを任す事ができました。

そんな訳で滞在中は感傷に陥る余裕は無く、精神的には返って助かったようです。

母は幼少の頃、溝に落ちて足に大怪我を負いました。
残念ながら当時の医療では治す事ができず、これが先ず彼女の人生に大きな影響を与えます。
生来とても気丈で負けず嫌いの性格でしたが、このような大きなハンディをしょってしまい、
バカにされないようにと母の取った手段は猛勉強をする事でした。

この当時ごく一般的な中流家庭で、7人兄弟の一番上。
弟や妹の面倒を見ながら寸暇を惜しんで勉強をしたそうです。
当然親は学校へ行くなど猛反対、直ぐにでも働いて家計を助けてもらいたい状況と戦いつつ、
先生たちの説得にも助けられて、当時大阪では一番良いと云われていた女学校へと進みました。
ここでも先生や同級生達との、幸運な良い出会があり、
彼女の人生や考え方に大いに影響を与えたそうで、
一緒に飲んでいると一番よくこの当時の事を語っていました。

卒業後は一時鉄道会社にも勤めますが、子供の頃余り旅行が出来なかった彼女は
もっと稼いで思う存分自由に旅行がしたいと思い、洋裁を始めます。
これも随分頑張ったようで、私が生まれた後も年に一度は2週間ほどの大きな旅行をしていました。
文学少女だった彼女が特に思い入れていたのは、芭蕉の奥の細道の足跡を
毎年順番に訪ねて行くと云うもので、本当に一人では行けなくなる80歳を超えるまで、
毎年東北方面へと旅立っていました。
この旅行の旅先でも貴重な出会いがたくさんあったようで、
長年に渡り手紙のやり取りをしている人達がいました。

洋裁も本当に好きでやっていて、何時も楽しい楽しいと云っていましたし、
よく夜遅く、夜中の2・3時まで働いていました。
一時は4・5人位の人を抱えていましたし、洋裁教室までしていたほどで、
その好きと云う点に関しては、何と93歳で他界する直前まで顧客がいたほどでした。

それに文学も並外れた熱の入れようで、自分自身も同人誌に加名し毎月エッセイを書き、
ペンネーム(松田伊津子)まであった程です。それには文章を書くだけでなく毎年それぞれがテーマを決め、
その研究を発表するのだそうで、彼女は90歳を超えた時点で「カラマーゾフの兄弟」に取り組み、
シンドイ、シンドイと云いつつもあの大作を読んでいました。
新聞に投稿するのも好きだったようで、エッセイや短歌がよく全国紙に取り上げられていました。

そんな訳で喋るのも大好き、よく町内の図書館や文学の集まりなんかでも人前で話をしたりで、
近所の人達によるとこの辺ではスーパー婆ちゃんとして有名だったそうです。
その噂を聞きつけた市長さんまで挨拶に訪れた程でした。

もう冗談を云いながら一緒に飲めないのが寂しいのですが、
机の上にはポートレートの写真が置いてあって(本来そのような趣味はないのですが)、
何だか一緒にドイツまで付いて来たような気がして精神的にはより近くにいる様な気がしています。

あれだけ再びドイツへ行きたいと云っていましたし、
機会があればあちこちでの出来事を書いたエッセイなどもここでご紹介したいと思っています。

今回はちょっと季節外れですが、一昨年の丁度クリスマスに朝日新聞に掲載され、
これが彼女の絶筆になったショート・エッセイをご紹介させて頂きます。

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「心に残る終戦のクリスマス」 小貫文子

 私は20歳のとき洗礼を受けたので、今までに74回クリスマスを経験したことになる。
その中でも、終戦の年のクリスマスは生涯印象深いものとして今でも脳裏に残っている。

 大阪府南部の日本キリスト教団堺教会での礼拝の帰り、夜遅く一人で最寄駅への坂道を
のぼっていると、前方から二人の進駐軍兵士が近づいてきた。彼らは私に「メリークリスマス」
と言ってほほ笑みかけた。突然のことでびっくりしたが、私も「メリークリスマス」とほほ笑み返した。

 「これが平和というものだ」。昨日まで殺し合っていた者が、今はお互いにクリスマスを祝福している。
寒い夜の空気の中、私は体中が熱く燃えた。彼らと交わした言葉が最高の贈り物となった。

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by Atelier Onuki
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by Atelier-Onuki | 2013-02-11 03:00 | 所感 | Trackback | Comments(0)
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