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ウィーンの謝肉祭

「変えられぬものは変えられぬ、唯忘れることのみ幸せかな。」

と言ったのは、あんなに美しいワルツや楽しいポルカを作り出したヨハン シュトラウスⅡ世でした。
作品とは裏腹に彼自身はとても悩み多き人だったそうです。

2月のカーニヴァルシーズン、ウィーンではファッシングと云って、街中の人が仮装をします。
また、舞踏会(バル)のシーズンでもあり、毎年楽友協会における舞踏会で始まり、
国立歌劇場のいわゆるオーパンバルで幕を閉じます。
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前者のバルには当然ウィーンフィルが出演し、
ドミンゴが振ったりしたこともありました。
この人の指揮は、ミュンヘンやコヴェントガーデンでレコーディングした
「こうもり」でも解るように、決して余興の域ではなくなかなかのもので、
専門の指揮者顔負けの腕前を持っています。
オーパンバルは数あるバルの内でも最もよく知られた由緒のあるものです。
前々日の公演がはねた後、客席に舞台と同じ高さの床板が敷きつくされます。
元来は社交界へデビューする人のお披露目の場で、
デビューする娘さんたちは白いドレスと決まっています。
その伝統的な入場行進からオフィシャルプログラムの間は、
当然国立歌劇場管弦楽団(ウィーンフィルハーモニーの母体)の演奏で、
それはそれは豪華なものです。由緒由々しき帝国の面影を感じさせます。
ゲストの豪華さも見もののひとつで、大物オペラ歌手は当然ながら、
皇室の人たちや映画スターも招待され、ショーンコネリーが来ていた年もありました。

正面玄関で、その時の音楽監督が招待客を出迎えるのが
しきたりになっているのですが、まだ若かったカラヤンの時の模様を
テレビで見たことがあります。
それはそれは颯爽としていて、格好よく決まっていました。
一方で84年、当時の音楽監督だったマゼールは自分の主義にそぐわない為か
出迎えを拒否し、クビになってしまいました。
(もっともこの事だけが原因ではなく、この歌劇場は厄介な問題をいつも抱えていますが・・・。)
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シュターツオーパーは普段出演者も装置も第一級のレヴェルを維持していますが、私がウィーンに居た
80年代の頃は、毎回公演する度に満席でも約一千万円程の赤字を出していました。
これを税金で補助している訳ですが、バルの時は少しでもその穴埋めをすべく、全ての値段がギネスブック
扱いでした。いずれの金額も80年台当時のもので、現在の金額はわかりませんが、
入場料は約2万円(これは普通かな)、ミネラルウォーターが一杯約7000円、シャンペン一杯約2万円、
7人入るロージェ(個室)を借りるのは約140万円もしていました。これは個人ではとても無理で、
大使館や何か特別な人たちが借りていたようです。
バル当日は歌劇場にロックバンドが入る唯一の日で、オフィシャルなプログラムが終わると大ディスコテク
に様変わりします。若い人たちはやはりこの方が合っていて楽しいという意見が多いようです。
歌劇場の中には舞台と客席以外にも沢山ロビーや部屋があって、各々趣の異なるバルをやっています。

このシーズン大小様々なバルが催されるのですが、新聞の折り込みにもバルカレンダーというのが
付いていて、ブルーメンバル(花屋協会舞踏会)とか、ポリツァイバル(警察舞踏会)というのまであります。
これを見れば、どこでどういう舞踏会があるのか一目瞭然と分かる訳ですが、
冒頭のシュトラウスの言葉の様に、辛い時代になればなる程、舞踏会の数は増えました。
事実、第一次と第二次の大戦中が最も多く催されたようです。
第一次大戦で領土の75%を失ったオーストリアですが、その後も誇りを保ち、バルの伝統は
したたかに生き続けています。
第二国連、オペック本部の誘致を考案し、まだ緊張の強かった東側への防波堤を一早く築きました。
これは何個師団を持つよりも安全かつ安上がり、一方表面上社会主義を取り、東側へもちゃっかり
気を使っています。

ヨハン シュトラウスの 「こうもり」 は単に楽しいオペレッタとしてではなく、結局は誰にも罪を着せず
全てはシャンペンのせいにしてしまう、成熟した大人の生き方、誤魔化し方、そんなオーストリア、否、
ウィーン気質を象徴している様に思えます。

by Atelier Onuki
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by Atelier-Onuki | 2013-02-12 17:20 | ウィーン | Trackback | Comments(0)
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