あの時のプラハは・・・

前回の項で母親とプラハに行った時のことにちょっと触れましたが、その結末について今回は母の文章を載せさせて頂きます。
彼女は文学少女(婆さん)で死ぬ間際まで「カラマーゾフの兄弟」なんて大作を読んでいましたし、
同人誌にも加盟していて、ちょっと旧姓をもじった“松田 伊津子”と云うペン・ネームで毎月投稿していました。
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「 白 い 手 袋 」

松 田 伊津子

ゆうべはフォルクス・オーパーでウィンナーワルツを聴き、今朝は南駅10時20分発の「ウィンナーワルツ号」に乗って私は共産圏の国に旅立つ。
見送りに来てくれたのはギターリストのTさん夫妻である。

私は何回ウィーンの駅で見送られた事だろう。以前もこの駅から夜行列車でヴェネチアへ向う私を彫刻家のAさんが見送ってくれた。
広くてひっそりした長い長いホーム。列車の窓はホームからかなり高くて見送る人と見送られる人はお互いの顔を見下し見上げてなごりを惜しむ。
まさに映画「終着駅」の世界である。

Tさんはお弁当をくれた。おにぎりと麦茶に紙コップまでそえて。
おにぎりの中には明太子、うめぼし、かつおが入っていた.これらの物はウィーンでは得難い貴重品である。
のりはしめらぬように別にラップに包んであった.細かい心配りである。
長い旅を続けている私にとって、これは高級レストランの食事にも勝る有難いなつかしい食べ物であった。

列車はひたすらボヘミアの草原を走る。地平線まで続くかと思われる果てしない草原である。
時たま羊や牛が放牧されているけど人影はない。

広々としたプラハ駅は屋根も柱も真赤に塗られている。異様な気がした。パンでも買っておこうと売店を探したが見当たらない。

やっと一つ見つけたけどパン等売っている雰囲気ではない。
「私は日本とえらい違いや。日本やったらどこの売店でも一杯食べ物があるのに。」と文句を云う。
息子が「あんたは共産圏の国にきているのだよ。それを忘れんように。言葉や行動に気を付けて。」と注意する。

プラハは空襲がなかったのでゴシック調の建物が並び中世そのままの町であった。
 
豊かに流れるモルダウ。これぞスメタナやドヴォルザークの国モルダウの流れである。
秋10月木々の葉は黄色に色づき最早や散り始めている。カサコソと落ち葉を踏み分けて私は岸辺に立った。

有為転変のこの国の歴史を写して変る事なく流れるモルダウ。
いとしのモルダウよわが祖国よ。スメタナの心が私にはわかる。
豊かな水の底からスメタナの「わが祖国」の曲が聞えたと思ったのは秋の日ざしの中で見た一ときの夢だったのだろうか。

それを醒ますかのように一じんの風が吹いた。
木々の黄色い胡蝶のように乱舞して私の足元にそして流れの上に落ちた。
私はその一枚を拾い本の間にはさんで「モルダウの岸辺にて」と書きそえた。

そしてモルダウをはさんでプラハ城が望まれた。
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私達は車でプラハ城へ向った。道巾も中世のままなので狭くて迷路のような石畳の道をバリバリ音を立ててあえぎながら城の表門に着いた。

門の両側にはいかめしい兵隊が警備している。城門の中にはちょっとした小さい町のような広さで大きな教会もあった。

特に面白かったのが黄金横町で昔ここに黄金職人が住んでいたことである。
細い路地裏のような所にボール紙をブルーや赤や黄色にぬって折りたたんだような小さい家が長屋みたいに建っていた。
今にも戸が開いて七人の小人が出てきそうな気がした。
その横丁を通りぬけると間もなく裏門である。
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しかし町まで降りて行くには果てしなく続く長い階段を降りてゆくか、さもなければ500m程の迷路のような石畳の道を降りるかである。

足の悪い私にはほんとうに辛い事である。ここまで車を呼んでほしい。
城門を警備している兵隊にたのんで電話をかけてもらわねばならぬ。
しかしここは共産圏の国、そして城は国営である。余程の理由がない限り私用で電話を使うことが出来ない。
公の電話を使うには上の人の許可がいるのである。

息子が一生懸命ドイツ語で私のお母さんは足が悪くて下まで行けないからタクシーをここまで呼んでくれるかと云っているが
兵隊はドイツ語も英語もわからないらしい。

やいやいいっていると5・6人の兵隊が出てきた。
彼等は私が足の怪我をしたのだと勘違いして救急車を呼ぶのか医者が必要なのかと聞いているらしい。
息子が救急車ではなくタクシーだと云ってやっと納得したらしくて電話をかけてくれた。15分程したらタクシーが来ると云うのである。

なんとも大そうな国である。やれやれと思って石に腰掛けて待っていたが15分たっても車は来ない。
息子がこの国はタクシーが少ないから仕方がないと云った。

30分たっても45分たっても車が来ないのである。私は耳をすまして石畳を登って来る車を待った。
私はあせり出した。あたりはとっぷり日が暮れて夜空に橙色の大きい半月がかかった。もうあたりに人影はない。
石の城門は重苦しく冷たくそそり立つ。
オーバーを着ていても北国の秋の夜寒はじわじわ足元から冷えてくる。

私はそれでも電話をかけてくれた兵隊を信じて待たねばならぬ。ましてや共産圏の他国の人である。裏切るわけにはいかないのである。

「どうぞ私の車が来ますように」と思わず祈った。とうとう1時間たった時、突然衛兵の一人が靴音高く石畳の坂道をかけ下りた。
私は「ああ下まで車を拾いにいってくれたのだな」と直感した。
夜のしじまの中にひびくあの堅い「たったったっ」と云う靴音が凍てついていた私の胸を打った。

間もなくエンジンの音を響かせて車が上がってきた。ヘッドライトのほのかな光は救いの光のように思われた。
このような事で兵隊が持ち場をはなれる事は大変な事なのに敢えてそうしてくれた。
しかも見知らぬ行きずりの旅行者のためにと思うと涙が頬を伝った。


「足が痛かったらこんな所まで来んでもええがな。」と云ってしまえばそれまでである。
私は車から降りた若い兵隊さんの手を思わず堅く握りしめ、おしいただくようにして「ダンケシェーン、ダンケシェーン」とくり返した。

彼の手のぬくもりが白い手袋を通して私に伝わった。
白という色がこれ程美しく清々しく思った事はない。

それは感動さえする美しさだった。私は走り去る車から振り返って手をふった。
夜のとばりの中で手をふっているあの若い兵隊の顔はさだかには見えなかったけれど闇の中に白い手袋が鮮明だった。
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夜更けにあの兵隊に思いをはせながら再びモルダウ川の岸辺に立って仰ぐプラハ城は
まるで夢の国のようにほんのりとブルーに染まり夜空に浮かんでいた。


by Atelier Onuki
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by Atelier-Onuki | 2013-11-09 00:15 | チェコ | Trackback | Comments(0)
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