「シューマンとブラームス」(ドイツ・ニュース・ダイジェスト2月のコラムより)

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シューマンとブラームスの最初の出会いは私の住んでいるデュッセルドルフでした。

それはシューマンが刊行していた「新音楽時報」の中で
[バッハに始まりベートーヴェンを頂点とした正統ドイツ音楽の重要性と回帰]を読み
感銘を受けたブラームスが共通の知人だった名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム
の紹介状を持って、ハンブルクからこのビルカー通り15番のアパートを訪れたのでした。
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早々に持参してきたピアノ・ソナタの1番を披露した処、シューマンは一旦演奏を止めさせ
別室にいたクララを連れてきて「もう一度最初から弾いてくれないか」と頼むほどでした。
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この青年に輝かしい才能を見出したシューマンはその後「新しい道」と題した論評で
ブラームスを紹介し20歳にして音楽界に知られる存在となりました。

すっかり気に入られたブラームスは1ヶ月に渡り滞在していますが、
その後クララとは生涯に渡り付き合うことになるとは、この時は想像できなかった事でしょう。

滞在中、ローレンスという画家に横顔の肖像画を描かせていますが、
一般的に知られている髭モジャのブラームスからは想像できないほどスリムなハンサム・ボーイです。
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この訪問はシューマンにとっては久しぶりの明るい出来事でした。

というのも彼はデュッセルドルフに来る前から、相当酷い精神病に掛かっていました。

クララとの結婚を巡り、クララの父親で彼のピアノの師匠でもあったフリードリッヒ・ヴェークから
執拗で屈辱的なまでの反対を受け、裁判にまでなったことが病の原因の一つだと指摘する人もいます。
この時の精神的ダメージが大きな影となってシューマンに圧し掛かっていたのでしょうか。

このデュッセルドルフではオーケストラと合唱団の音楽監督という立場でしたが、
作曲された代表作は何と言っても「ライン」と副題が付いた交響曲3番でしょうか。

初めて見るラインに感銘を受け、そこに尊厳すら感じ取り、
とうとうと流れるラインの力強さや憧れ、そしてウキウキをした気分までも表現しています。

この曲からは到底、彼の精神状態は想像できませんが、
翌1854年2月カーニバルの日にラインに掛かる橋から身を投げてしまいます。
(この橋は現在ありませんがブルク広場の大階段辺りに船を連ねた上に橋桁を架けただけの低い橋があったのが当時の挿絵から伺われます。)
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この時は偶々通りかかった漁船に助けられますが、
入院したボン近郊の療養所では充分な治療を受ける事もできず2年後に亡くなってしまいます。


by Atelier Onuki
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by Atelier-Onuki | 2018-02-28 00:25 | コラム | Trackback | Comments(0)
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