カテゴリ:コラム( 16 )

ぺルチャッハのブラームス (ドイツ・ニュース・ダイジェスト 4月のコラムから)

a0280569_19531180.jpg

構想から20年余りの歳月を経て、苦しみの内にやっと完成にこぎつけたブラームスの第一交響曲も初演を終え、
その重荷から開放された彼はヴァルター湖畔のペルチャッハへ作曲を兼ねた避暑に訪れます。
a0280569_19534599.jpg

ここでは構築的で重厚な1番の交響曲とは、打って変わって明るく伸びやかな2番の交響曲を生み出します。

それも彼としては珍しく3ヶ月ちょっとと云う短い期間で一気に完成させています。

その穏やかな曲想からブラームスの「田園交響曲」と呼ぶ人もいるほどです。

ブラームスが最初に宿泊したのは「シュロス・レオンシュタイン」と言う600年前のお城を改装した旅籠でしたが、
2年目の夏から筋向いにある、古びた「ラバッツ」と言うペンションに引っ越しています。
a0280569_19542062.jpg

a0280569_19543725.jpg

それは最初に訪れた時に、長逗留をしていた芸術愛好家で世話好きの、
とある男爵夫妻が食事や船旅など頻繁に誘ったそうです。

人付き合いが余り得意でない彼は作曲に専念したかったので、
翌年からはこの寂しいペンションを7部屋も借りて静かに作曲をしたそうです。

その甲斐あって、ここでは「ヴァイオリン協奏曲」や「ヴァイオリン・ソナタの1番」
それに「ハンガリー舞曲」という名作の数々を生み出しました。

唯、このペンションは本当に朽ちかけていて、
壁に落書きのように「この家にブラームスは滞在しました。」と書かれていなかったら
唯の廃墟にしか見えず、ここで生れた名作の数々を思うと悲しい気持ちになります。
a0280569_19545378.jpg

「裏山には城跡があって、そこからの眺めが良いよ。」とホテルの人が言うので登ってみることにしました。

頂上には東屋が建っていてここからの眺めは遠くアルプスが見渡せ絶景です。
a0280569_19552320.jpg

東屋には大きな木製の安楽椅子が設置されていて、ここでゴロンと寝転べるようになっています。
a0280569_19554373.jpg

枕元を見るとボタンが3ツ付いていて、上から「ハンガリー舞曲6番」、
「子守唄」、そして「ヴァイオリン協奏曲」から2楽章と書かれています。

上から押してみると元気良くハンガリー舞曲が鳴り出しました。
続いて「眠れ~眠れ・・・」で始まる例の「ブラームスの子守唄」、
ヴァイオリン協奏曲のアダージョではその心地よさに本当に眠ってしまいそうでした。



by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2018-04-23 19:56 | コラム | Trackback | Comments(0)

「トゥッツィングのブラームス」 (ドイツ・ニュース・ダイジェスト3月のコラムより)

a0280569_1935510.jpg


ブラームスは大好きな作曲家なので、特に4曲ある交響曲は高校生のころから親しんで聴いていました。

その内3番は比較的短い曲なので、
レコードの余白にはオマケ的な扱いで「ハイドンの主題による変奏曲」がよくカップリングされていました。
ところがすっかり気に入って、途中から入っているにも関わらずこの曲の所を選んでよく聴いたものでした。
(勿論3番も大好きな曲ですよ。)

その後、何十年も経ってミュンヘンに住んでいたときに演奏会で貰ったプログラムを
パラパラ眺めていると、素敵な風景画が目に留まりました。

それはComptonと言う画家が描いた水彩画でしたが、
Tutzing(トゥッツィング)と云うシュタルンベルガー湖畔の町で、何とここでこの曲を作曲していたのです。
a0280569_1944728.jpg

Sバーンで行ける距離ですし行かない手はありません。

少ない情報を頼りにブラームスが滞在したペンションが建つHauptstrasseを目指しました。

湖畔にでると「ブラームス・プロムナード」と書かれた小さなプレートも掛かっていて、
何だかウキウキとした気分になってきます。
a0280569_1951388.jpg

a0280569_1955568.jpg

グリーンベルトの中央辺りにある大きな柳の下にはブラームスの碑が建っています。
これは彼の生誕100周年を記念して建てられたそうですが、
碑には「ヨハネス・ブラームス、作曲家、Tutzing、三作品」と書かれているだけでサッパリとしたものでした。
a0280569_1961355.jpg

a0280569_1963594.jpg

どういう経緯でここに来たのか分かりませんが、偶々Heyseさんと云う人が最初に連れて来たそうで、
すっかり気に入った彼は再びここを訪れ、5月から8月まで何と4ヶ月もの間滞在したそうです。
a0280569_1965638.jpg

a0280569_197954.jpg

湖に突き出た桟橋にヨッコラショと座り込み、
遠く連なるアルプスを眺めながらおもむろにI-phoneを取り出しました。
a0280569_1974632.jpg

a0280569_1981734.jpg

a0280569_1982957.jpg

a0280569_1984484.jpg

低弦のピッチカートに乗ってオーボエが穏やかな主題を奏でだしました。

そりゃこんな風景に囲まれていたら、穏やかな気分で作曲が進められるでしょうね。

曲は進みホルンが軽快な旋律を高らかに鳴らし私の大好きな箇所に差し掛かりました。
きっとこれは目の前の堂々と連なるアルプスを表現したのかなぁ~

クライマックスに入り待ってましたとばかりにトライアングルを伴って盛り上がりを見せたあと、
名残を惜しむようにフィナーレを閉じました。

イヤァ~この上ない至福の20分間でした。




by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2018-03-19 19:09 | コラム | Trackback | Comments(0)

「シューマンとブラームス」(ドイツ・ニュース・ダイジェスト2月のコラムより)

a0280569_0211248.jpg

シューマンとブラームスの最初の出会いは私の住んでいるデュッセルドルフでした。

それはシューマンが刊行していた「新音楽時報」の中で
[バッハに始まりベートーヴェンを頂点とした正統ドイツ音楽の重要性と回帰]を読み
感銘を受けたブラームスが共通の知人だった名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム
の紹介状を持って、ハンブルクからこのビルカー通り15番のアパートを訪れたのでした。
a0280569_0215390.jpg

a0280569_022994.jpg

a0280569_0222290.jpg

早々に持参してきたピアノ・ソナタの1番を披露した処、シューマンは一旦演奏を止めさせ
別室にいたクララを連れてきて「もう一度最初から弾いてくれないか」と頼むほどでした。
a0280569_0223552.jpg

この青年に輝かしい才能を見出したシューマンはその後「新しい道」と題した論評で
ブラームスを紹介し20歳にして音楽界に知られる存在となりました。

すっかり気に入られたブラームスは1ヶ月に渡り滞在していますが、
その後クララとは生涯に渡り付き合うことになるとは、この時は想像できなかった事でしょう。

滞在中、ローレンスという画家に横顔の肖像画を描かせていますが、
一般的に知られている髭モジャのブラームスからは想像できないほどスリムなハンサム・ボーイです。
a0280569_0225872.jpg

a0280569_0231326.jpg

この訪問はシューマンにとっては久しぶりの明るい出来事でした。

というのも彼はデュッセルドルフに来る前から、相当酷い精神病に掛かっていました。

クララとの結婚を巡り、クララの父親で彼のピアノの師匠でもあったフリードリッヒ・ヴェークから
執拗で屈辱的なまでの反対を受け、裁判にまでなったことが病の原因の一つだと指摘する人もいます。
この時の精神的ダメージが大きな影となってシューマンに圧し掛かっていたのでしょうか。

このデュッセルドルフではオーケストラと合唱団の音楽監督という立場でしたが、
作曲された代表作は何と言っても「ライン」と副題が付いた交響曲3番でしょうか。

初めて見るラインに感銘を受け、そこに尊厳すら感じ取り、
とうとうと流れるラインの力強さや憧れ、そしてウキウキをした気分までも表現しています。

この曲からは到底、彼の精神状態は想像できませんが、
翌1854年2月カーニバルの日にラインに掛かる橋から身を投げてしまいます。
(この橋は現在ありませんがブルク広場の大階段辺りに船を連ねた上に橋桁を架けただけの低い橋があったのが当時の挿絵から伺われます。)
a0280569_0234111.jpg

この時は偶々通りかかった漁船に助けられますが、
入院したボン近郊の療養所では充分な治療を受ける事もできず2年後に亡くなってしまいます。


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2018-02-28 00:25 | コラム | Trackback | Comments(0)

ヴィリー・ボスコフスキー(Willi Boskovsky 1909-1991年)さんの思い出

1月は日本へ行っていましたので、もう2月とえらい時期が遅くなりましたが、
このコラム記事を載せておきます。
a0280569_19513635.jpg

ニューイヤー・コンサートは今ではお正月の風物詩としてすっかり定着していますが、
ヨハン・シュトラウスⅡ世と同じようにヴァイオリン片手に25年間も指揮を執っていた
ヴィリー・ボスコフスキーさんの時代に世界中の人々に親しまれるようになりました。
a0280569_19515333.jpg

処で、超大昔のある年、大学受験で上京していましたが結果は見事に不合格。・・・

落胆して雪道をトボトボと帰路に付いていましたが、
ふと「確か今日はウィーン・フィルでワルツの夕べがあるはずだ!」と思い浮かびました。

ひょっとしてチケット売り場は開いているかもしれないと、当てもなく会場の武道館を目指しました。

ガランとした広場には人気もなく空っ風が空しく吹いているだけです。

諦めて返ろうとすると、何処からとなく音が聞こえてきます。

これはひょっとしてと、音が聞こえて来る方へと向かうと、
太いケーブルが敷かれていて一箇所ドアが半開きになっていました。

「そうかTV中継をするのだ!」と、恐る恐るドアを開き中へ入ると・・・な、
何とリハーサルの真っ最中ではないですか・・・

二階席でポツリと座っていると、「そこの君、こっちへ降りてきて!」と誰かが叫んでいます。
いやぁこれは叱られるのかと思ってヒヤヒヤしながら降りていくと、
どうやらバイトのスタッフと間違えられたようで「これ、ステージの上に持っていって!」と、
楽器を運ばされることに。 「ハイハイ!」と二つ返事で手伝っていました。

休憩に入りTVスタッフは皆帰り、私はたった一人で客席の最前列にポツリと残りました。

リハーサルは続きますが、ウィーン・フィルの皆さんは和気藹々とした雰囲気で楽しそうです。

「常道曲」では途中で「und so weiter, und so weiter」と指揮者の掛け声で止まる決まりなのですが、
ファゴットが造反し、止まるどころかパカパカ・パカパカとものの見事に吹き続いています。
これには全員から喝采が起こり大笑いとなりました。

その後もポルカ「狩り」では打楽器奏者がボスコフスキーさん目がけて銃を撃つと
彼も胸を押さえて撃たれた格好をしていました。

リハーサルも終了しサインを恐る恐るボスコフスキーさんにお願いしましたら、
ニコニコとしながら気軽に応じてくれました。
握手までしてくれましたが、その時私の薬指にガチッと当たるものを感じました。
フト見るとそれは四角い立派な黒ダイヤが付いた指輪でした。

彼はスイスで亡くなりましたがお墓はウィーンの中央墓地で眠っています。
ボスコフスキーさんは、やはりウィーンが良く似合います。
a0280569_19521923.jpg



by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2018-02-08 19:53 | コラム | Trackback | Comments(0)

「パリのモンマルトル墓地」 (ドイツ・ニュース・ダイジェスト12月のコラムより)

a0280569_1454983.jpg


パリでは、モンマルトルの麓に位置するアベス界隈がゴジャゴジャとした下町の生活感が溢れていて好きです。
a0280569_1461239.jpg

この界隈は画家たち縁の地も多いですし、アベス通りを西の方へ下るとモンマルトル墓地が現れます。

初めてこの墓地へ行った時はブラッと立ち寄っただけで、何の予備知識もないまま訪れたのですが、
います、います、数多の著名人たちのお墓が目白押しに出現しました。

この日は寒く、夜にはオペラへも行く予定があったので、後ろ髪を引かれながらも、ここを後にしました。

それから数年後、今度はしっかり調べてから出向きました。
クリシー広場から通りをダラダラ登り、コーランクール通りに入った辺りの階段を降りると墓地のメイン入り口に出ます。

この墓地はかつての石切り場跡に作られたそうで、なるほど地面からは随分下がった所に位置しています。

入り口の番屋には地図がぶら下っていて借りる事ができ、
この裏側には著名人の名前がアルファベット順に載っているので心強い味方です。

広い墓地は木々も多く静かで都会の真ん中とは思えないほどです。
a0280569_1494037.jpg

a0280569_1495971.jpg

ここにはスタンダールを初めゾラやハイネなどの文学者や作曲家ではベルリオーズにオッフェンバッハ、
それにドリーブ、画家ではドガ、ダンサーではニジンスキーと枚挙に暇がありません。

ただ、この日の目的はオペラ「椿姫」でヒロインになったヴィオレッタのお墓を訪ねることでした。

陸橋を潜ると左手にあっけないほど簡単に見つける事が出来ました。

屋根の付いたシンプルな墓石には彼女の本名で“Alphonsine Plessis”アルフォンシー・プレシと刻まれています。 
a0280569_150386.jpg

正面には肖像画もはめ込まれていて、真っ赤な口紅の跡が幾つも残されていました。 
彼女が生きた時代から150年以上も経過しているにも関わらず、今でも彼女を慕う女性たちが多くいることが伺われます。
a0280569_150515.jpg

彼女の名前はややこしく小説では“マルグリット・ゴーチェ”として登場し、
オペラでは“椿姫”というタイトルにも関わらず“ヴィオレッタ”(スミレちゃん)と名付けられ、
もう一つの “マリー・デュプレシ”という名はいわゆる源氏名で、
その知性と気品の漂う美麗さで当時は有名な人だったそうです。

彼女との実際の出来事を元に小説化したアレクサンドル・デュマ・フィスも近くに眠っています。




by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-12-19 01:52 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーのお墓 “ウィーン、グリンツィング墓地“ (ドイツ・ニュース・ダイジェスト11月のコラムより)

a0280569_22245335.jpg


ウィーンを追われるように辞職させられた彼は新しい活路を求めていましたが
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の招きで1907年の暮れに渡米しました。

2年後にはニューヨーク・フィルの常任指揮者も兼任することになり
ヨーロッパとは行ったり来たりの生活でした。

それにしても当時は船旅ですから体力的にも相当厳しいことだったでしょうね。

トブラッハで9番目の交響曲を作曲していた頃の彼は体力的にも精神的にも
相当弱っていたはずです。

そんな折、元来疾患があった心臓病が悪化し、
ニューヨークからウィーンへ戻って来ますが、3ヵ月後に亡くなってしまいます。

息を引き取る直前に「モーツァルト」と2度言ったそうです。

お墓はウィーンの北西グリンツィング墓地に5歳で亡くなった長女マリア・アンナと一緒に
ウィーンの街を一望できる高台に眠っています。
a0280569_22261945.jpg


ユダヤ教の神殿門を連想させるような形の墓石はシンプルながら堅固な印象です。

墓石上部に「GUSTAV MAHLER」としか刻まれていませんが、
これは生前「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何物だったか知っているはずだし、
そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない。」と明言していたそうで、
いかにもマーラーらしい発言です。
a0280569_22265926.jpg

墓石には沢山の石が乗っていますが、
これは、かつて大戦中に多くのユダヤ人を救ったシンドラーの墓に誰かが置き始めたのが最初だそうで、
ユダヤ教では永遠性や不滅の意味が込められているそうです。
a0280569_22271817.jpg

さて、妻だったアルマ・マーラーもこの墓地に眠っているのですが、
このお墓は、まず三角形の石版が目立っていてそこには「MANON GROPIUS」と刻まれています。
それはグロピウスとの間に生れた娘マノンで、聡明な美少女だったそうですが19歳で急死しています。
a0280569_22275056.jpg

若い頃、子供と引き離された過去があるアルバン・ベルクは
友人だったアルマの子を我が子と重ねるように可愛がっていたそうで、
すぐさま作曲したヴァイオリン協奏曲は「ある天使の追想に」と題され思いを込めています。
唯、この曲は彼自らへのレクイエムともなってしまいました。

アルマの名前は背景のように建てられた青銅版に示されていますが、
そこには「ALMA MAHLER WERFEL」と刻まれています。
Werfelは最後の夫でマーラーとは死別なのでダブル・ネームなのでしょうか。・・・
a0280569_2234244.jpg

マーラーのお墓から通路を挟んで4つほどずれた裏側に面していて、
二人の微妙な関係を象徴しているようです。


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-11-26 22:35 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーの作曲小屋3-トブラッハ (ドイツ・ニュース・ダイジェスト10月のコラムより)

a0280569_1975670.jpg


マーラーの三つ目、即ち最後の作曲小屋は、
南チロルのトブラッハ(イタリア語でドッビアーコ)にある山の中腹に建っています。
a0280569_1982647.jpg
 
1908年、50歳を迎えようとしていた彼の状況は最悪と言っても差支えがないほどでした。
1年前には長女を亡くし、ウィーンの職は解雇され、自らは心臓病を起こしたり、精神病も煩いフロイト博士の診断を受けていました。

それに何と言っても彼を悩ませたのは妻アルマの浮気でしょうか。

アルマは恋多き女性として知られていますが、
結婚をする前から彼女の師であった作曲家のツェムリンスキーとも噂されていましたし、
画家のクリムトとも親しかったようです。

そしてこの当時は著名な建築家で後にバウハウス創設者となったヴァルター・グロピウスと付き合っていて、
グロピウスはわざわざトブラッハまでアルマに会いに来たとも言われています。
 
そんな状況の中、マーラーの交響作品はちょうど9番目の構想に差し掛かっていましたが、
「9番」を呪いのように思っていた彼は躊躇しています。

それはベートーヴェンをはじめブルックナーなど偉大な交響曲作曲家達が
「9番」を最後に他界していたからです。

若い頃から死に対する不安が付きまとっていたマーラーにとって「9番」を作曲するには決死の覚悟が必要でした。

結局は「9番」として着想した曲は「大地の歌」という別名の交響曲とし、
タイトルに「9番」と付けるのを避けてしまいます。
 
しかし、意を決したように、とうとうこの作曲小屋で「9番」の制作に取り掛かります。

曲は「大地の歌」の最後のフレーズ「永遠に~」から同じメロディーを受け継ぎ静かに始められ、
途中はもうヤケクソ気味の気分にもなりますが、最終楽章では穏やかな気持ちで死に対する恐怖から解かれ、
むしろ憧れすら感じさせる崇高な音楽にまで昇華しています。
 
ただ、この作曲小屋は現在、人寄せパンダよろしく作られた動物公園の中に
埋もれてしまっているのが、少しばかり残念です。
a0280569_1985177.jpg

a0280569_1991189.jpg

夕方ちょっと悲しい気分になって「そろそろ帰ろうか」と、遠くトブラッハの町を眺めていると、
教会の鐘が鳴り出しました。
「カン・コ~ン、カン・コ~ン」……

「これって1楽章の最後の方で鳴る鐘と同じメロディー……」
ジワッ~と目に熱いものを感じました。



by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-10-21 19:10 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーの作曲小屋-2 (ヴェルター湖畔) [ ドイツ・ニュース・ダイジェスト 9月のコラムから]

a0280569_0495426.jpg

8年間とマーラーが最も長く滞在した二つ目の作曲小屋はオーストリアの最南部、
スロベニアにほど近いヴェルター湖畔(Wörthersee)のマイヤーニッヒ(Maiernigg)に建てられました。

湖は横に長く、濃いエメラルド・グリーンの水を湛えて透明度も高く綺麗な湖です。

湖北岸の中央辺りに位置するペルチャッハ(Pörtschach)と言う小さな町は
ちょっとしたリゾート地となっていて湖沿いにはお洒落な店やホテルが立ち並ぶプロムナードになっています。
a0280569_0501612.jpg

a0280569_0503484.jpg

ここには2年に渡る夏のシーズンにブラームスが滞在し、
「交響曲2番」を初め「ヴァイオリン協奏曲」や「子守唄」などの名曲を作曲しています。

マイヤーニッヒは対岸の南東部に位置しますが、ブラームスがこの湖を訪れていたことも、
マーラーがこの地を選んだ理由の一つかもしれません。

この当時のマーラーは指揮者としてはウィーン宮廷歌劇場の芸術監督,
そしてウィーン・フィルの常任指揮者としても活躍し、押しも押されぬ地位を獲得していました。

作曲家としても既に揺るぎない名声を博し、絶頂期を迎えていました。

このマイヤーニッヒは1899年に湖畔に建つ館と裏山の土地を購入したほどで、
この地でジックリと腰をすえて作曲に取り込む覚悟だったようです。
a0280569_0521621.jpg

1902年には41歳で23歳のアルマと結婚、そして長女マリア・アンナの誕生と私生活でも幸せの頂点でした。

ここで作曲された曲では何と言っても「交響曲6番」が最も名作として知られる処ですが、
この4楽章で叩かれる大きな木槌を巡って色んな解釈がなされています。
(現在は2回叩くのが大方の解釈ですが、バーンスタインなどは3回叩かせました)

こんな絶頂期にも関わらず神経質な彼は3ツの不安を感していました。

一つ目は「家庭の崩壊」、二つ目は「社会的ダメージ」、そして三つ目は「自分の死」を恐れていました。
(マーラー自身の指揮では初演以外、3つ目は叩けなかったそうです)

これらの予感は後々全て当たってしまいますが、
それよりも何を思ったのかリュッケルトの詩に啓発されて作曲した
「亡き子をしのぶ歌」を発表したすぐ後に長女が忽然と亡くなってしまいます。

その後、この土地を全て売り払い二度とこの地へ来る事はありませんでした。
a0280569_053453.jpg

a0280569_0531995.jpg

a0280569_0533464.jpg


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-09-18 00:56 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーの作曲小屋・番外編 アルタウス湖 (ドイツ・ニュース・ダイジェスト 8月のコラムより)

a0280569_21201295.jpg

アッター湖畔のシュタインバッハを後にマーラーがブラームスを訪ねたように、私もバド・イシュルを目指しました。

バスは途中のヴァイセンバッハで乗り換えるのですが、時刻表をよく見ると“Rufbus“と記載があり、
乗車時間の1時間前に電話連絡するようにと書かれていました。

人気のないバス停、半信半疑で待っていましたが、
来ました来ました威勢の良いご婦人が運転するミニバンが時間通りやってきました。

乗客はたった一人にも関わらず結構な山道を延々と進みバド・イシュルまで連れて行ってくれました。
まるでリムジンサービスのようで、これにはいたく恐縮しました。

さてバド・イシュルも皇帝フランツ・ヨゼフが愛した保養地なので、それなりに味わいがあるのですが、
早々に、この日の目的地アルタウスゼーに向かいました。

列車は途中通過するハルシュタットの綺麗な町並みを湖越しに眺めながら先ずはバド・アウスゼーを目指します。

ここでバスに乗り換え、揺られることほんの15分ほどで小さな村へ到着しました。

このアルタウスゼーに来たかったのは、この湖畔に建つワグナー家
(作曲家ワグナーとは何の縁もない人)に招かれたブラームスが、
バド・イシュルで完成させたばかりのピアノ三重奏2番と弦楽五重奏を試演しているからです。
a0280569_21211871.jpg

a0280569_21213369.jpg

この館はホテル・Seevillaとして現存し、
演奏した部屋は「ブラームス・サロン」と冠されたレストラン・カフェになっていて
湖を眺めながらゆったりとした時を過ごす事ができます。
a0280569_21215991.jpg

a0280569_21221789.jpg

a0280569_21223160.jpg

ブラームスは途中の保養地バド・アウスゼーに滞在していたクララ会いたさもあったかも知れませんね。

その数年後には念願のウィーン宮廷歌劇場に就任しブラームスを崇拝していたマーラーもやってきます。

ここでは「子供の不思議な角笛」と交響曲4番という名作に着手しています。

ちょっと辺鄙な所にある湖なので訪れる人も少なく、ちょっとした秘境かもしれません。
水も透明度が高く、聞くところによるとそのまま飲める程だそうです。
a0280569_2123177.jpg

a0280569_21231927.jpg

近年、ジョージ・クルーニー制作の映画「ミケランジェロ・プロジェクト」(The Monuments Men)で
ラストシーンの舞台にもなったのでちょっとは知られたかもしれませんね。

ブラームスはクララを、マーラーはブラームスを追っかけているようですが、
この現象は未だ続きがあります。


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-08-21 21:25 | コラム | Trackback | Comments(0)

マーラーの作曲小屋1-オーストリア、アッター湖畔 (ドイツ・ニュース・ダイジェスト7月のコラムから)

a0280569_21511880.jpg


グスタフ・マーラーは生涯に3カ所の作曲小屋を作りました。

彼は毎年9月から翌年の6月までの音楽シーズンは優秀な指揮者として活躍していましたので、
夏休みの間に集中して作曲に取り組んでいました。
 
作曲に専念するため、最初に訪れたのはザルツカンマーグートの湖水地方にある湖の一つ、
アッター湖畔のシュタインバッハという小さな村でした。
 
当時マーラーは33歳、ハンブルク歌劇場の音楽監督時代でしたが、
1893年から1896年まで4年にわたり弟や妹達と休暇を兼ねて滞在していました。
それにしても、誰から聞いたのでしょうか、よくもこんなへんぴな所まではるばる来たものです. 

彼が滞在したホテルは「ガストハウス フェッティンガー」といって現在は名称こそ変わりましたが
当時のまま現存していて、2階の階段室にはマーラーが滞在していた部屋が再現されています。
a0280569_21515967.jpg
 
最初はホテルの部屋で作曲に勤しんでいたのですが、
何かと騒がしくて集中できなくなり湖畔に小屋を建ててもらったそうです。
 
事実、私が行った時も、ちょうどマイバウム(“5月の木”といって、
町のシンボルとして5月1日に建てられる)を建立した日で、
ホテルの庭では楽隊がくつろいでいて、ご機嫌な音楽が時折演奏されました。
a0280569_21521952.jpg
 
これではあの神経質で深刻な内容がたっぷり盛り込まれている曲の発想は邪魔されたことでしょう。
 
小屋はホテル裏手にある湖畔にポツリ(マーラー時代の写真だと)と建っています。
今はキャンピング場を抜け、小屋の隣にはダイビング・スクールも建っています。
a0280569_21525576.jpg
 
気を取り直してドアを開け慎重に歩を進めると、突然、弦のトレモロと共にザバザバザンと
お腹に響くようにコントラバスが力強く刻みました。
a0280569_21531981.jpg

それはセンサーが反応してここで作曲された交響曲2番の冒頭が鳴り始めたのでした。

ここでは、牧歌的な交響曲3番も作曲されていて、意欲に満ちた名作が生れています。
 
この頃、ウィーンへの進出を目論んでいた彼はコネを得ようと
近くのバド・イシュルに滞在中のブラームスの元を訪れています。
 
私も従って翌日はバド・イシュルへと向かいました。
(何のあてもなく!)


by Atelier Onuki
~ホームページもご覧ください~

応援クリックありがとうございます!

人気ブログランキングへ
[PR]
by Atelier-Onuki | 2017-07-27 21:53 | コラム | Trackback | Comments(0)